2010年3月8日月曜日

「営業パ-ソン、がんばれ!」~出入禁止令!29話

読者のみなさん、こんにちは!

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、震度7の阪神・淡路大震災が起きた。
当初、気象庁は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」と命名。

しかし淡路島地区の被害も大きかったことにより、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日の閣議によって口頭了解された。

■死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名


• 避難人数 : 30万名以上
• 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
• 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
• その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
• 被害総額 : 約10兆円規模

出所)提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用。


そのとき私は、奈良市内にある会社の寮に居ました。ちなみに奈良県は震度4。

今回は、出入禁止令!とタイトル付けました。

当時、担当先(販売先)の主な地域は、大阪府内、奈良県、和歌山県。
ただ、岡山県に1社のみ担当先がありました。

当時は、住宅用の和室内装材を主に生産するメ-カ-であった。

私は北米産のスプル-スという樹種の原材料を、コンテナ-で輸入販売していた。

価格・品質面は、担当先の製造課長から一定の評価を受けていました。

1995年(平成7年)1月17日に、阪神・淡路大震災が起きた。
ただ、震災の被害を受け神戸港、大阪南港とも、貨物船の入港すらできない状況。
かつ大震災日以前に入港した貨物(原材料)も、トレ-ラ-の配車ができず出荷さえもできなかった状況。

たとえ、配車の手配ができても、高速道路・一般国道など交通インフラは完全にマヒ状態

ただ、岡山県津山市は大震災の影響は、ほとんどなく工場は正常に稼働していた。
 
当時の担当先製造課長は、「こちらは地震の影響はない、早く原材料を送ってくれ!」と数回連絡が入り、大阪市内の状況を説明した。

かつ当時の常務からも、早く供給する趣旨の連絡も入っていた。
しかし、「工場はいかに生産効率を上げるか」が重要な職務。

結果的には、安定供給はできなかった。

3月に入り、私の上司、本部長、部長、課長と岡山の担当先へ表敬訪問した。

そこで担当先常務から「楯さんを担当から外して欲しい」と開口一番に言われた。

当然の結果であったと当時、思いました。

いわゆる「出入禁止令」です。

私はあの日が、いちばん悔しく無念な気持ちなりました。

昨今では、ビジネス・リスク管理という、自社にとってリスク要因を予測しマニュアルを策定しています。

ちなみに
米国のマイクロ・ソフト社が初めて「リスク・マップ表」を書籍に開示した。

これは、リスク発生頻度と影響度をマトリスク化したもの。
 
その中には自然災害リスク」もカテゴリ-の1つとして掲載されています。

その意味は、「我社は、想定されるリスクに対しきちんと方針を決めています」と
中期経営計画や有価証券報告書に記載する目的。

「リスク・マップ表」については、 【経営事例】9話で詳しく掲載する予定です!


では、次回またご来訪お待ちしています。


※下記の写真は、私が去年台湾の第二の都市である【高雄市】の風景。
この写真は、台湾で2番目の超高層ビル85Fから撮影。


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