2010年2月8日月曜日

「営業パ-ソン、がんばれ!」新規OEM営業編~ひたすら歩く!26話

読者のみなさん、こんにちは!

江戸時代末期の米沢藩主の上杉鷹山という人物、ご存知でしょうか??

現代でいえば、「大赤字の会社を立て直した偉大な経営者」と呼ばれるでしょう。

私の趣味は歴史です。
たまたま、書店で「上杉鷹山」の本を買って読んでから、経営について強い関心を
抱きました。大学時代の頃の話です。

1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団からこんな質問を受けた。 「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」

ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」

おそらく日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人はいなかっただろう。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、青少年に敬愛されてきた人物である。

藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。

     ・ 自ら助ける、すなわち「自助」

     ・ 近隣社会が互いに助け合う、「互助」

     ・ 藩政府が手を伸ばす、「扶助」

出所)提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用。

今回は、新規OEM営業編~ひたすら歩く!とタイトル付けました。

大阪へ転勤してから、木材以外の新規営業をしていました。
当時、B課長の担当先だったTW社(現在この会社は存在しない)。
このTW社は、・フロ-リングの生産から製品化。
        ・階段・玄関框・カウンタ-などの塗装及び製品化。
        ・工場は5拠点。

当時、昔から名門の会社として世間の評判は上々でした。

当時の取引額は、月約200万円しかなかった。
B課長と同行営業して、キ-マンとの挨拶と各工場の生産キャパと製品品目など
の引き継ぎをした。

私は、挨拶した各キ-マンの方とお話をするため、週3回は訪問していました。
しかし、最初の3ヶ月間は、相手にもされない有様でした。

B課長、「行って、行って、行きまくれ!」との指示。

私はキ-マンの方と1分でも話がしたく、週3回の訪問ペ-スは崩さなかった。
いまは忙しい!」、「オレはその担当違うから、アイツに聞いてくれ! 」
など、たらい回しの時期も結構長く続きました。


半年ほど経過したある日、当時の部長が「楯、もう行っても無駄だ!、諦めろ!」と 営業活動の判断の見直しを求めた。

しかし、B課長は「楯、今のまま続けろ!責任はオレが取る!」と指示された。

半年間も訪問すると、製造メ-カ-特有の製品別内製比率が徐々に把握してきた。
要は、下請けに生産委託している製品を、当社に切り替えてもらう努力を始めた。

とにかく月200万円しかない担当先。当時の課内会議でも営業を続けるかの是非論はあった。
当時その担当先の取引額がピ-ク時、月8,000万円、平均で月5,000~7,000万円に なることは想像もできない。
 
ただ5年間、ひたすら歩きかつ自分の忍耐力との勝負の時期だったと振り返る。
 

では、次回お楽しみに

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